今に生きる救いの物語

神様の救いのご計画は、昔も今も変わることなく進んでいます。キリストの教会がディサイプルスから分かれる前の宣教師たちのエピソードが、この秋田の地に様々な形で息づいていますのでご紹介させて頂きます。

 

エピソード1 宣教師達の来秋と夫人の死

1884年、ディサイプルス派(キリストの弟子という意味)の宣教師達、スミスとガルストが秋田の地を訪れました。彼らによって武家屋敷に設立された秋田基督教会は、何度か場所を移し、現在は日本基督教団秋田高陽教会となっています。宣教師達は、故郷アメリカを離れ、秋田の地にやって来たのです。スミスの妻ジョセフィンは、来秋後一年を経ずして、出産後に天に召されました。この時生まれた子どもも、一ヶ月後に天に召されました。宣教師達は、秋田の地に生きる人々に神様の愛を伝えるために、文字通り命を懸けたのです。

 

エピソード2 秋田・東北地方に咲くクローバー

ガルストは、栄養不良の子ども達が多い現実を見て、ミルクを与えるために乳牛を飼い、その飼料として東北地方で初めてのクローバーを植えました。今日、秋田・東北の地に咲くクローバーや乳牛は、かつて宣教師達がこの地に植え、秋田・東北の地に生きる子ども達を育んだことの証しです。

 

エピソード3 秋田英和学校

1885年末頃、宣教師達は秋田英和学校を設立しました。現在は残っていませんが、宣教師達は、子ども達への教育を担うために、全力を尽くしたのです。

 

エピソード4 秋田の赤い靴の物語

スミスの妻ジョセフィンは、生前に婦人宣教師の派遣をアメリカの本部に要請していました。彼女の死に際してその要請が聞き入れられ、1886年にミス・ハリソンが婦人宣教師として秋田にやって来ました。ハリソンは教会や学校での伝道の他、刑務所で産まれた女の子を引き取り育てました。ハリソンがアメリカに帰国する際、その子を連れて横浜から出発、ロサンゼルスの大学で学ばせた後、ハワイに渡り共に日本人のために働きました。宣教師達は、自らの人生を懸けて、刑務所の中でこぼれ落ちた幼い命を育んだのです。

 

エピソード5 「マイ・ライフ・イズ・マイ・メッセージ」

1898年、ガルストは東京で天に召されました。臨終の床にあって「遺言はないか」と尋ねられると「マイ・ライフ・イズ・マイ・メッセージ(私の人生こそ私のメッセージです)」と答えました。ガルストが亡くなった時に、伊藤博文は「西洋は未だかつてチャールズ・E・ガルストに勝る贈物を送ったことはない」と語りました。ガルストは宣教師となる前にはウエストポイント陸軍士官学校出身の軍人でした。戦後、ウエストポイントの卒業生として日本を訪れた人物はダクラス・マッカーサーです。宣教師達は、自らの栄光を捨ててまでも、秋田の地に生きる人々に仕えたのです。

 

エピソード6 秋田県で一番最初の幼稚園=秋田幼稚園

これらの歴史の上に、ニーナ・スチーブンス宣教師夫人が、1905年1月、秋田で最初の幼稚園である秋田幼稚園を創りました。当時、秋田の地では幼児教育は未だ行われてはいませんでした。宣教師達は、子ども達とその心を育むために、秋田で最初の幼稚園を創設したのです。秋田幼稚園は、宣教師達が、子ども達一人一人の心を育もうとしたその精神を、今に継承しています。また、ディサイプルスの伝統は東京において学校法人聖学院を生み出しています。

 

今に生きる救いの物語

天地を創造され、イエス様をお送り下さった神様の救いのご計画は、このように今も進んでいます。ディサイプルスとキリストの教会が分かれる前のエピソードが、様々な形でこの秋田の地に息づいています。私たちもまた、それぞれの場所にあって、キリストの弟子として生きた先達の生き方を心に刻み、神様の救いの物語りを生きる者でありたいと思います。

 

日本基督教団 秋田高陽教会 牧 師
学校法人秋田キリスト教学園 理事長
秋田幼稚園 園 長
赤 田 直 樹