ハリソン宣教師 1886-1899年まで活動し、日本人の養子を育てた女性宣教師

女性として初めてハノーバー大学を卒業したカラ・ジェームス・ハリソン女史は、インディアナ州で教師をしていました。
ある時日本人女性への伝道を活発にするためにと、独身女性宣教師を募っていることを知ります。当時秋田で、病気を抱えながらも活動を続ける宣教師のスミス夫人が自らを送り出した宣教団体(F.C.M.S.)に要望を出したのです。ハリソン女史は、同じく教師をしていたケイト・ジョンソン女史とともに1886年(明治19年)来日、秋田へ。残念ながら二人が到着したのはスミス夫人が召天した後でした。しかし、共に働くというスミス夫人の願いは叶わなかったものの、二人は日曜学校運営、教会活動、伝道活動、教誨師として刑務所で伝道するほか、英和学校建設のために力を尽くしました。

秋田での働きについて、ハリソン女史はこう報告しています。「平日は毎日、昼に2時間半慈善学校で教えています。夜も週に2時間半、夜間学校で教えています。2つの学校の責任者でもあります。日曜学校は3つあって、合わせて220名の生徒が来ます。毎日2つの祈祷会があり、毎週木曜日には信者のための祈祷会もあります。毎週土曜の夜には聖書クラスも教えています。毎日2時間の語学学習の他、養子のお世話もしています。暇ができたら、家庭訪問をしています。」このように毎日多くの生徒に教え、伝道に熱心であったことが分かります。

さて、ここで養子の世話とありますが、これはハツという女性のことだと思われます。女子刑務所で教誨師をしていた時、ハリソン女史は赤ちゃんを身ごもった受刑者と出会います。だれも赤ちゃんを引き取って育てることができないと分かったとき、ハリソン女史は自分が育てることを決意します。天然痘が流行する中、紙おむつもない時代に、寒さ厳しい秋田で一生懸命に赤ちゃんのお世話をしました。

このようにしてハリソン女史は、秋田でガルスト夫妻、スミス氏、そしてともに来日したジョンソン女史と働きました。しばらくするとガルスト夫妻とジョンソン女史は鶴岡へ移り、さらに数年後にはミッションの本拠地を東京に置くことになり、秋田の働きは日本人の牧師に任せ、ハリソン女史も東京へ移りました。

1899年(明治32年)、ハリソン女史は日本での働きを終えてアメリカに帰ることとなりました。しかし、ハツを育てながらでは働けません。ロサンゼルスに住む母にハツを預け、ハリソン女史はハワイへと向かいました。

ハワイでは、日本でも活動を共にしたアズビル氏と働きました。1901年にハワイでの働きを報告した文章が残っています。「ここには日本から、親や夫に売られてきた女性が、まるで売り物のように小部屋に入れられています。アズビル氏がその建物の向かいにもう使われていない教会を見つけ、そこで集会を始めました。夜な夜な、彼女たちは男性客に泣いてお願いしてチャペルにやってきます。アズビル氏が一つ得た勝利は、その建物での商売は日曜にはお休みになったことです。アズビル氏は他にパラマの貧困街でも日本人のために教会を建てました。」
ハリソン女史はその後ロサンゼルスに戻りました。ハツの養育を任せていた母親が亡くなってしまったからです。彼女は教師として働きながらハツを高校、大学へ進学させます。その傍らハリソン女史はロサンゼルス在住の日本人のための働きもしました。記録にはハリソン女史が1908年に始められた日本人クリスチャン向けの英語学校の創立を助けたとあります。家具などをそろえて授業ができるようにしたとのことです。しかし、その運営はクリスチャン女性宣教師会に引き継がれたとあります。ハリソン女史のロサンゼルスの生活はそう長くなかったからです。
実はその時期はハツにとって苦しい時でした。1907年から排日暴動がおこるなどして、日本人に対する風当たりがきつくなっていたのです。ハツは大学を卒業し教師を目指していましたが、このままでは就職もままなりません。ハリソン女史は日系人の多いハワイへハツを連れて戻ります。
ハワイで二人は教師として働きました。ハリソン女史は本土での教員経験がありますが、州によって法律の違うアメリカでは、その州の教員免許を持っていたほうが有利です。二人はそろって教員試験を受け、二人とも合格しました。ハリソン女史は教会での働きも、もちろん続けました。
しかしハツは1922年春、病気になって天に召されます。34歳でした。残されたハリソン女史はハワイで日系人のための働きを続けました。日本での宣教活動ももちろん忘れることはなかったようです。1929年にホノルルの日曜学校で集めた献金を東京の四谷ミッションに送ったことが記録に残っています。ハリソン女史は78歳で天に召されるまでハワイでの活動を続けました。1937年に召された彼女のお墓は今でもホノルル墓地に残されています。
明治時代に悲しい出生の女児を引き取り育てた女性宣教師の話は、多くの人の心に響きました。1975年に直木賞作家の渡辺喜恵子氏は、この二人をモデルにした登場人物を「タンタラスの虹」という作品で登場させています。そして1994年には「秋田の赤い靴」というブロンズ像が秋田市立中央図書館明徳間の前提に建立されました。幼いハツの肩をやさしく抱いてたたずむハリソン女史の姿は、凛として美しく、横浜の赤い靴の像とはまた違う雰囲気を持っています。