スミス宣教師 1883-1892年まで秋田と東京で活動した宣教師

ガルストとともに日本にやってきたスミス夫妻。ガルストほど資料は残っていませんが、ある限りの情報を集めてまとめました。

ジョージ・スミスは1843年10月16日生まれで、出身はガルストと同じオハイオ州。べサニー大学で学んだ後、オハイオ州ウォーレンのセントラル・クリスチャン教会で10年間牧師として働きました。

1883年9月、スミスは10歳年下のガルストとともにFMCSより送り出されます。妻のジョセフィンと幼い娘エルシーとの日本への船旅は3週間と長いものでしたが、ガルスト夫人の著書によれば、かわいいエルシーによって幸せ一杯になったとのこと。6歳の少女のかわいらしさに、旅のつかれた癒された様子がうかがえます。

日本に到着してまず向かったのは横浜。ここで7か月の日本語の訓練をしました。この時にヘボン宣教師ら数多くの他教派の宣教師と交わりがあった様子です。秋田への道を開き、案内してくれたポート宣教師はバプテスト派の宣教師で、親切にも住居などの手配までしてくれました。

1884年5月、スミスは病弱な妻と幼いエルシーを横浜に残し、ガルスト夫妻と三人で秋田の地へ。秋田では、ガルストとともに精力的に伝道し、つたないながらも日本語で説教しました。ガルストは地方へ行って伝道したようですが、宣教活動の中心を担ったスミスは、秋田の中心街であった久保田のあたりで伝道した模様です。

スミスにとって秋田は情熱を燃やして伝道した地であり、さらには悲しみの地でもありました。

赴任して一年もたたない1985年、もともと病弱だった妻のジョセフィンが次女を出産後、天に召されてしまったのです。

病弱なジョセフィンは医師の勧めもあって、スミスとガルスト夫妻が秋田へ渡ったあと、横浜で秋田での準備が整うのを待っていました。ジョセフィンと娘のエルシーが秋田へ渡ったのは二か月後の7月。秋田に着いてからはガルスト夫人のローラとともに、日本語の習得と婦人への伝道に励みました。二人はさらなる女性伝道のため、独身女性の働き手が与えられることを祈り、その旨を手紙でアメリカに書き送り、日曜学校や集会を増やす計画を立てていました。さらにジョセフィンは編み物教室を開き、新たな信徒を得ようとも考えていたようです。

そんな中、妊娠中のジョセフィンの体調はだんだんと悪くなっていきました。1885年2月には痛みに襲われ、その後ベッドから出て立ち上がることなく、3月23日、次女を出産後すぐに天に召されてしまいました。ジョセフィンの死はFCMSの宣教師の中でも、宣教地で召された最初の人であり、秋田にあるその墓は、北日本で最初の宣教師の墓となったのです。

悲しみに暮れるスミスに追い打ちをかけるように、約1か月後の4月20日、生まれたばかりの次女エステルも天へと旅立ってしまいました。

この二人の死に関し、ガルスト夫妻もしばらく悩んでいたようです。後になってスミス夫人のアメリカでのかかりつけの医者から、もともとジョセフィンが腎炎を患っており、アメリカにいてもどこにいても寿命は変わらなかったろうと告げられ、ほっとした様子が著書に書かれています。日本での宣教に情熱を傾けるジョセフィンに、医師も病状を告げるのをためらったそうです。

スミスはその後、娘のエルシーをアメリカの親戚のもとへと送り、秋田での伝道を続け、1886年には秋田英和学校を開設しています。これによって日本での就労が認められ、旅券の期限が旅行者用の半年から就労者用の四年に延びたので、宣教もしやすくなったようです。この秋田英和学校の一室は教会として使われていた模様です。

同じ年の3月には秋田市内で大火(俵屋大火)があり、以前彼らが共同生活をしていた家が火元であったために、差別的発言を受けました。しかし、スミス、ガルストの住む新しい家はどちらもギリギリのところで風向きが変わり被害を免れたということです。彼らが被害者を秋田英和学校に避難させて食事を出したので、かたくなな人々の心が和らげられて、偏見が減ったといいます。

しかし火災から助かったスミスは4月に天然痘にかかってしまいました。この時秋田では天然痘が流行っていて、悪意を持った少年が、天然痘にかかった自身の体をスミスにこすりつけてうつしたというのです。ガルスト夫妻と日本人の信徒の看病によって回復したスミスは、1887年短い休暇を取ってアメリカへ旅立ちます。

アメリカ滞在中にスミスは娘のエルシーと再会、さらにオハイオで婦人伝道局の支部長をしていたキャンディス・ラモン女史と結婚し、三人で秋田へと戻ってきました。さらに、ジョセフィンが願っていた独身女性宣教師も与えられ、人員の増えた彼らは新たな伝道を始めるべくガルストらを鶴ヶ岡へと送り、スミスは秋田での伝道を続けました。

1889年、ジョセフィンが宣教地で天に召されたことに感銘を受けたアメリカの支援者からの献金で、秋田市内に記念教会堂が建てられました。献堂式は昇天から五年後の翌1890年三月。その場所は秋田基督教会と呼ばれるようになりました。

しかしこの年の秋、首都東京でも伝道すべきであるとのFCMSの方針により、スミス夫妻とジョンソン女史、ハリソン女史は東京、本郷へと移ります。秋田での伝道は日本人牧師の手に任され、彼らは東京での活動を始めたのです。当時の日本では、それまでの西洋の影響を夢中で受け入れていた時代から、全く反対の国家主義的思想が高まり、キリスト教に対する偏見や差別も大きくなっていました。東京での働きには、多くの苦労があったようです。

1891年、4月にラモン夫人との間に生まれた長男ユリエルが天に召されてしまいました。1歳9か月。青山墓地に墓が残されています。

東京でのスミス氏の働きは詳しくわかっていませんが、東京へ多くの宣教師が送られてきていたことから、本郷での働きが精力的に行われていたことが想像できます。スミス夫妻は1892年に引退しアメリカへ戻りました、その後も宣教師によって続けられた働きにより、宣教の拠点は本郷だけでなく、築地や小石川にも置かれ、聖学院大学の設立や滝野川教会の発展、また四谷での活動は四谷ミッションへとつながっていきました。

スミス氏が引退した後に秋田で1904-1911まで働いたエルスキン氏によれば、「スミス氏は秋田で最も激しい反対にもめげず、熱心かつ真剣に伝道したことで有名である。彼は熱心さの故に、後ろから投石され、前からは嘲笑されつつも秋田各地を伝道して回った。福音は救いに導く神の力であり、日本人は福音を得なければならぬと固く信じ、それを日本人に与えようとしたのである」(秋田高陽教会百年史p57より抜粋)