チャールズ・E・ガルスト 5

活動的なガルストは、東京での活動だけではなく、かつての宣教地を訪ねるため、再び北日本へ伝道の旅に出ました。この旅で体調を崩したガルストは、一向に良くなることがなく、その後も活動を続けますが体力は落ちるばかりでした。それでも神様はガルスト夫妻の働きを通して川村洋次郎夫人や多くの日本人を救いに導きました。療養中であっても訪問をし、伝道文章を書き続けました。マデン宣教師夫妻やアリス・ミラー宣教師が働きに加わったのもこのころです。東京での活動はますます活発になって行ったのです。

 

その後ガルストは体調がよくなるにつれ、伝道だけでなく社会運動も活発になります。築地を拠点に単税太郎と名乗って単税論を語っていたのはこの頃のことです。雑誌への寄稿や、講演会での発表など、単税論を分かりやすく広めるために精力的に活動しました。城泉太郎と協力して土地単税論を宣伝する切手を発行したこともありました。国会議員やYMCAの職員などもひっきりなしにガルストに相談に来ていたそうです。ガルストは自分が回復しつつあるので、妻のローラを南京に送り出します。そこにはローラの妹が住んでいたからです。

 

ちょうどこの時、日本に来られなくなった宣教師がいました。カニングハム宣教師です。夫婦で日本へ行く準備を整えていたところ、夫のウィリアムが病に倒れ、左足が不自由になってしまったのです。この数年後カニングハム夫妻は日本にやってきますが、この時来日できなかったことを、本当に残念に思っていたようです。

 

ローラの南京での滞在は、予定より短いものになりました。日本からガルストの具合が悪いと連絡が入ったのです。急いで帰ったローラと子どもたちは、今まで見たこともないほど弱ったガルストと対面します。1898年12月28日、家族と友人らに囲まれながらガルストは天に召されました。日本での活動は1883年から1898年までの15年、30歳で初来日したガルストは45歳の短い生涯を閉じたのです。

 

ガルスト夫人はその後アメリカに戻り、夫とのことを回想した本を出版しています。この文章は彼女の著書「陸軍士官学校の…」と工藤栄一著「単税太郎C・E・ガルストー明治期社会運動の先駆者」を参考にまとめさせていただきました。