チャールズ・E・ガルスト 4

秋田で四年の活動をしたガルスト夫妻は、多くの働き手も与えられているので、新たな伝道地を目指しました。現在の鶴岡、当時は鶴が岡と呼ばれた地域へ向かいます。新たな家と礼拝堂を手に入れた夫妻は、この地でも熱心に福音を述べ伝えましたが、残念なことに自宅が火事に見舞われ、ほとんどすべてを失ってしまいます。命が守られ、近所の方々からは暖かい差し入れを受け、秋田の仲間からも物資をもらい、彼らは勇気づけられます。

 

このころガルストの関心は単税論に向けられます。ヘンリー・ジョージという人の書いた土地単税論についての著書「進歩と貧困」を読み、感銘をうけたそうです。秋田や鶴岡での農民の貧しい暮らしを目にして、どのようにしたらこの人たちの生活を向上することができるのだろう、と常に考えていたからです。宣教師として魂の救いに導くだけでなく、日々の生活をも良い方向へと導きたかったのです。

土地単税論とは簡単にいうと、国が税金をかけるのは土地だけにする。出来上がった作物には税をかけない。ということです。米価の上昇などにより、突然税金が跳ね上がって苦しむ小作人や、地主だけが利益を得ているさまを見て、どのようにすれば貧富の差が縮まるのか、貧しさから抜け出すことができるのだろうかと考えていたようです。

 

しかし、鶴岡での働きは順調とは言えなかったようです。素晴らしい出来事もいくつかあったようですが、伝道の広がりに衰えが見え始めました。秋田と鶴岡合わせて8年の働きをしたガルスト夫妻は、一度アメリカに帰国することにしました。外国人の少ない土地で、言葉も十分に通じず文化の違う社会で、たった数名の仲間とともに神様を伝え歩くのは、簡単なことではありません。彼らには休息が必要でした。

 

宣教師にとってアメリカへの帰国は、実は休暇ではありません。宣教地を離れていても、自分たちのために献金を捧げてくれている教会や支援者のもとを訪ねて報告をし、招かれればどこへでも行って礼拝メッセージや集会での講演などの奉仕をするのです。ガルスト夫人は、久しぶりに帰国した宣教師夫人の苦悩を書き残しています。アメリカの流行に取り残され、数年前から着続けている服のまま礼拝に出席し、時代遅れだと思われてしまうこと、宣教地で伝道していないのだからと帰国中に給料が減らされてしまう人がいること、夫があちこちでかけ留守が多いので家の仕事が宣教地よりも増えること。久しぶりのアメリカ滞在は、のんびりとする暇もあまりなかったようです。

 

そんな中、彼らを悲しみが襲います。6歳の息子ハーツェルが腸チフスにかかって天に召されたのです。愛する息子を失ったガルスト夫妻は、悲しみを胸に再び日本に帰りました。今度の来日では東京で伝道することになっていました。宣教師館には、スティーブンス夫妻、オルダム宣教師、リオケ宣教師がいました。後にガイ夫妻とワイリック宣教師が小石川に住み、活動に加わりました。