チャールズ・E・ガルスト 2

陸軍士官学校の学生は、在学中も含めて八年間陸軍で勤務することが規則で決まっていましたが、ガルストはその間も聖書研究を通して友人を救いに導き、いつか宣教師としてアフリカに行きたいという夢を持っていました。また、農業学校で学んだ知識を生かし、家畜事業も行っていました。妻となるローラと出会ったのは、陸軍の仕事でニューメキシコ州のフォート・スタントンに駐在していた時で、二人はいつか事業に成功したらアフリカへ行こうと夢を膨らませていました。

 

しかし、エレットが会長を務める海外クリスチャン宣教協会(FCMS)により、アフリカではなく日本へ招かれました。ガルストはそのまま陸軍に留まれば昇進することが約束されていました。陸軍のエリートコースを歩んでいたからです。しかし、多くの人の反対にあいながらも二人は日本へ行く決意をします。実は当時、日本はアジア宣教の窓口でした。アメリカのサンフランシスコを出た船はまず横浜を目指し、そこから多くの人がインドや中国への宣教に向かったのです。二人はまず横浜を目指しました。

 

横浜についたのはアメリカを出発して三週間後のことでした。1883年10月18日です。二人はしばらく横浜に住み、ともに伝道するために海を渡ったスミス夫妻と日本語習得に励みました。当時の日本語は「あいうえお」ではなく、まだ「いろはにほへと」だったようです。私たちの多くも知りえない、明治時代の国語をガルストたちは学んでいました。今よりも男性と女性の話す言葉には違いがあったようですし、地方に行けば方言もあります。言葉の苦労はわたしたちの想像も及びません。事実、ローラは早い段階で語学の習得は無理なのではと半ばあきらめてしまっていたようです。

 

明治時代と聞いて何を思い浮かべるでしょう。ペリーが浦賀で開国を迫り、横浜を中心に外国文化が一気に日本に入った時代です。人々の記憶にはまだ鎖国時代にキリスト教が禁止されていたことが、はっきりと残っていました。キリスト教を禁ずる札が1873年まで掲げられていたからです。しかし、宣教師たちの熱心な働きにより、また海外の技術や知識を身に着けたいという日本人の求めによって、福音は伝わり始めていました。