チャールズ・E・ガルスト 3

半年の語学と文化の学習を経て、ガルスト夫妻とスミス夫妻はある決定をします。それは宣教師が多く働く横浜を離れ、秋田で伝道をするということでした。当時まだ鉄道も通っておらず、未開の地であった秋田が推薦された理由は、そこにまだどこの教団教派の宣教師も存在していなかったからです。彼らより前に久保田(当時の秋田)に行ったことのある外国人は、日本奥地紀行を書いたイザベラ・バードだけでした。

 

秋田に移り、築六十年の大名屋敷に住むことになった彼らは、持ってきた西洋家具を運び入れますが、初めて目にする外国人の物珍しさに、多くの人が家に集まりました。皆、勝手に家に上がり込んでしまったのです!しかし、このことが彼らを変えます。自宅で集会を開けばたくさんの人が集まると分かったからです。彼らの家での礼拝が始まり、同時に秋田周辺の地でどのように伝道するべきか、どこへ行けば人が集まるのかを探る旅にもいきました。男性陣が伝道にいそしむ間、女性陣も忙しい日々を過ごしました。婦人会を開き、家政婦を雇い、子どもを育て、家を守ったのです。家政婦を雇ったとはいえ、それは家事を全くしなくてよいということではありません。言葉もろくに通じない日本人の女性に、西洋式の料理や洗濯の仕方を教えなくてはなりません。ノミがピョンピョンと跳ねる中で掃除をしたり、慣れない畳での生活の仕方を学んだり、男性に負けず劣らず、女性も苦労を重ねました。

 

そんな女性陣の働きもあって、おイノさんという女性が洗礼を受けました。彼女は後に東京で活動したカニングハム宣教師のニュースレターにも「わたしたちの間で初めて受洗した、有名な日本人のクリスチャン女性」として写真付きで紹介されています。

 

そんな中つらい経験が彼らを襲います。病弱だったスミス夫人が、出産に際して命を落としたのです。生まれた赤ちゃんも一か月ほどで天に召されました。彼らは深い悲しみの中、それでも秋田にとどまって福音を述べ伝える決意をします。そこにはまだまだ、イエス様の救いを知らない人がいたからです。そして神様はこの悲しい出来事さえも用いて、伝道のために道を備えてくださいました。初めて行われた宣教師の葬儀を見た秋田の方々の心が、少しずつ開いていったのです。

 

その後、スミス夫人が生前から願っていた女性の働き手が二人秋田に派遣されました。ケイト・ジョンソン宣教師と、キャラ・ハリソン宣教師です。彼女たちは大きな助けとなりました。さらにスノッドグラス夫妻が合流、数年後にはスミス宣教師が再婚してキャンダス婦人も加わります。多くの人の助けが与えられ、秋田での活動はますます大きくなっていきます。